映画『あんのこと』 この現実をしっかり見届けるか? 目をそらすか?

だれにも、私を殺させない。─── 幼いころから母親に虐待され、麻薬中毒で売春の常習犯…ある女性の壮絶な人生を、ありのままに描いた映画『あんのこと』が6月7日(金)から公開されます。

コロナ禍の2020年に起きた現実の事件をモチーフに、『SRサイタマノラッパー』シリーズや『AI崩壊』の入江悠監督が映像化。そこに映し出されているのは、きっと、いまも日本に存在する現実です。

 

はじまりは一本の新聞記事。「絶対にこれを描かなければ」

新型コロナウィルスの国内初の感染者が確認されてマスクが店頭から消え、オリンピックが延期になった2020年。緊急事態宣言の発令で、人々は家から外に出られなくなっていました。ほんの数年前のことなのに、どこか遠い昔のように感じるこの年に、ひとりの女性が自ら命を絶ちます。

彼女は子どものころから母親の虐待を受けて育ち、義務教育も受けていません。母親から売春を強いられ、ドラッグ中毒にもなっていました。救いようのない底辺の暮らしぶりです。しかし、彼女は更生し、薬を絶って母親のもとから離れ、自分の人生を歩もうとします。その矢先、パンデミックに行く手を阻まれて力尽きたのですが……。

映画『あんのこと』の一場面

 

この事件の新聞記事を読んだ入江悠監督は、「自分は絶対にこれを描かなければ」と直感。生前の彼女を知る関係者や記事を書いた記者に取材し、とことん事実と向き合ったうえで制作をスタートさせます。入江監督は多くの作品で脚本を手掛けていますが、実際の事件をもとにした脚本づくりは今回がはじめて。執筆中は「自分にその資格があるのか」という問いに向きあいつづけたと語っています。

そうやって行き着いたのが、「社会的弱者という先入観を捨て、彼女が過ごした時間を感じる」ことだそう。だからなのか、入江監督が描いた「杏(あん)」は、単なる〈かわいそうな子〉として表現されていません。ドロドロとした底辺の現実に引きずり込まれながらも這い出し、自分の人生を生き直そうとする強さをもっていた、ひとりの人間がそこにいます。

 

芯のところで強さを失わない女性・杏を体現したのが、TBSドラマ『不適切にもほどがある!』など話題作への出演がつづく河合優実さん。実在の、それもセンシティブな事件の人間を演じるのはむずかしく、覚悟も必要だったと思います。「杏とモデルとなった女性を守らなきゃ。彼女と手をつなごうと思った」という河合さんは脚本を読んで、杏を演じることを迷いなく決心。役の衣装やヘアメイクでカメラテストから参加した河合さんの役づくりを通して杏はカタチづけられ、いまも街のどこかを歩いているようなリアルな存在感を放っています。

映画『あんのこと』の一場面

 

彼女は、そばにいたかもしれない。

映画『あんのこと』は、主人公である杏の人生を追った物語です。それだけでも重厚ですが、さらに杏に関わってくる大人たちの多面性も見どころ。

例えば、佐藤二朗さん演じる多々羅。ベテラン刑事で薬物更正者の自助グループを主催し、杏に救いの手を差し伸べます。こちらは表の顔。人懐っこい笑顔で人を助けている多々羅には、裏の顔もありました。

また、多々羅とともに杏をサポートする週刊誌記者の桐野。稲垣吾郎さん演じる彼は自助グループの活動を取材すると見せかけて、多々羅の裏の顔を探っています。

人間がもっている顔はひとつではありません。表もあれば、裏もある。それがすべて悪いわけではありません。ですが、杏がようやく人を信用しようとしていたタイミングで裏面をつきつけられると、観ているこちらも落胆してしまい、ジワジワと元の暗闇に落ちていくような感覚を味わっていきます。

映画『あんのこと』の一場面

 

そして、迎えるコロナ禍。多くの人が閉塞感と息苦しさに覆われ、誰かとつながりたい、誰かと話したい、そう願いながら窓の外を眺めていたあのころ。外の世界とつながった杏は、その細い線をまた切られてしまうのです。

コロナが、人間が、生きようとしていた彼女の人生を削り取っていく現実を突きつけられる映像は、けっして気持ちのいいものではありません。画面越しに杏を見守る、こちら側の気持ちもかなり削られます。

本作のチラシにはこう書かれています。

「2020年、この日本で起きていた、本当のこと。彼女は、きっと、あなたのそばにいた」

あのころ、そばにいたかもしれない。いや、いまもそばにいるかもしれない〈あんのこと〉を、わたしたちは目をそらさずに見届ける必要があるように感じます。

映画『あんのこと』の一場面

 

映画『あんのこと』

2024年6月8日(金)より、テアトル梅田、なんばパークスシネマ、アップリンク京都、kino cinema神戸国際などで公開。

公式サイト:https://annokoto.jp/

© 2023『あんのこと』製作委員会

masami urayama

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