日本サッカー「プロ化」への道。
佐藤 英男 氏
サッカーは、世界を舞台にくり広げられる命がけのマリオネット――山岡淳一郎氏の著書“プロサッカー・アウトロー物語、マリオネット”の主人公、佐藤英男氏、通称「セニョール佐藤」。サッカーどころの浦和に生まれ育ち、Jリーグ黎明期からクラブのフロントで強化や運営に携わった。マルチリンガリストという才能を活かしJリーグに招聘した外国人監督・選手は少なくない。2006年ヴィッセル神戸のフロント入りがきっかけで来神。以来2018年11月に故郷の埼玉県に帰るまで13年間の長きにわたって神戸を拠点に活動した。帰郷直前に行ったインタビューは5時間を超え、Jリーグ設立や海外でのエピソード、語学など、話題は多方面に及んだ。その模様をシリーズで掲載する。第一回目は、“日本サッカー「プロ化」への道”。
Jリーグ開幕。企業アマからプロへ。
1993年、Jリーグが開幕しました。日本のプロサッカーリーグの誕生です。オリジナル10と言われる参加クラブは、鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原(ジェフユナイテッド千葉)、浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)、ヴェルディ川崎(東京ヴェルディ)、横浜マリノス(横浜F・マリノス)、横浜フリューゲルス、清水エスパルス、名古屋グランパスエイト(名古屋グランパス)、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島。チーム名に企業名は入りませんが、広告効果を期待する企業のチームが多い顔ぶれとなりました。
日本のサッカーはもともと企業スポーツとして発展してきました。その中心的な存在だったのが、丸の内御三家と呼ばれる古河電工(ジェフユナイテッド千葉)、三菱重工(浦和レッズ)、日立製作所(柏レイソル)。一方で藤和不動産サッカー部(後のフジタサッカークラブ、現湘南ベルマーレ)や永大産業サッカー部(廃部)は企業チームでありながら早くからプロ化を志向していました。1980年代に入り、読売サッカークラブ(東京ヴェルディ)や日産自動車(横浜F・マリノス)というプロを目指すクラブが台頭してくると、プロパガンダとしてのメリットを認めた企業チームが次々に名乗りをあげるようになります。ヤマハ(ジュビロ磐田)はその波に乗っていったチーム。乗り遅れてしまった東芝も、後に札幌に行ってコンサドーレ札幌になりましたね。ホンダもプロを目指したけれど会社の方針が変わって企業クラブとしてやっていくことになった。今でもJFLの強豪です。日本鋼管は伝統のあるチームでしたけど、会社の経営状況が影響して結局サッカー部は廃部になりました。
あの頃、企業アマで栄えてきたチームをプロ化する過程においては、ものすごく大きなうねりがいくつもありました。
イングランドのサッカーは、いかにしてプロになったのか。
Jリーグの成り立ちを知るには、そもそもヨーロッパをはじめとする海外のプロクラブがどうやってできたのかを知っているといいですよ。
プロサッカーが最初にできたのは産業革命後のイングランドです。それ以前のサッカーはチームもルールも地域によってさまざまでした。参加人数もピッチの広さも異なっていて、町中がピッチでテムズ川にゴールした方が勝利だとか、教区同士の対戦でゴールは相手チームの教会だとか。既婚女性vs未婚女性という試合もあったようです。パブリックスクールでも、チャーターハウス校、イートン校、ラグビー校、ハロー校それぞれに独自のルールがありました。やがてそのルールを統一しようとする流れが生まれ、1863年の統一規則とFA(イングランドサッカー協会)設立へとつながっていきました。「ダービー」の語源とも言われているイングランドのダビーシャー州では、今でもカレンダーゲームとして昔のサッカーが伝承されています。僕は学生時代にフットボールの歴史を研究していて、フランシス・メーガンJr.というイングランド人の論文からそんなことを学びました。当時、サッカーの歴史や世界のサッカー情報などの知識を得るのは洋書からでした。少年時代からサッカーに魅せられていた僕は、高校に入学と同時に雑誌を中心に洋書の定期購読をしつつ、学生時代は洋書を求めて神田の書店や古本屋をかたっぱしからあたったのを今も覚えています。
産業革命の影響で、各地の農村にいた人々がマンチェスターやリバプール、ロンドンなどの都市に集まってきました。農業より工場でもらう報酬のほうが安定しますからね。当時は水曜日と土曜日が半日で日曜日が安息日。それで、労働者たちは水曜日の午後に集まってサッカーの練習をして土曜日や日曜日に試合をしたんです。サッカー場は工場の敷地内にあって、労働者たちがサッカーを始めると「面白そうだ」って見物客が集まってくる。選手たちも面白くなって「もっと練習したい」となる。そうなると、仕事をさぼらなきゃいけなくなりますね。でも、仕事の時間が減ると給料も減ります。Broken time payment サッカーで失われた労働時間の支払いは、工場労働者みんなが寄付をして埋め合わせていました。みんなで選手を支えていたんです。
選手がサッカーの練習に集中するとサッカーのレベルが上がり、試合も面白くなってくる。観客もどんどん増えました。立ち見だと後ろの人が見えないっていうことでサッカー場のまわりに座って見られる階段ができ、やがて「いっそのこと土地を買ってスタジアムにしよう」という話になった。有志でお金を出し合い土地を購入してスタジアムを建設する。そして、その人たちが理事や会長になってクラブの設立が行われました。スタジアムができたのは、鉄道の駅の近くだとか都市部の便利な場所。観客もますますたくさん入るようになって、入場料も取れるようになりました。やがてBroken time paymentの寄付金などよりも大きい金額が入るようになってきた。「じゃあ、労働者やめてサッカー選手になろう」と。ヨーロッパのサッカーは、そんなふうに選手もクラブもプロになっていったんです。
海外とは違う、日本のスポーツ事情。
僕は1977年に読売サッカークラブ、現在の東京ヴェルディのフロントに入りました。きっかけは、学生時代の新田純興先生※1(故人)との出会いです。新田先生は、東大サッカー部でプレーし日本サッカー協会をつくった人で、僕の恩師でもあります。先生を通じてサッカー界のさまざまな人と関わることができました。その一人が、読売新聞記者であり読売サッカークラブ設立に携わった牛木素吉郎氏※2(サッカージャーナリスト)です。また、もう一人の恩師・小野卓爾先生※3も新田先生に紹介されました。小野先生は日本サッカー協会専務理事・常務理事を歴任し中央大学サッカー部監督として天皇杯を制した人で、僕はこの恩師からサッカーのプロ化のミッションを命じられました。そういういきさつがあって、プロ化を念頭につくられた読売サッカークラブに入ることに決めました。
当時は「企業アマ」のチームが主流で、プロ化を志向するクラブはまだ少なかった。読売サッカークラブの選手は、学生や家業手伝いや、登録上・名目上はよみうりランドの社員だけれど仕事はサッカーオンリーのプロのようなもの。しかし多くの企業チームの選手たちは社員として企業に籍を置き、午前中は仕事をして午後から練習をするなど働きながらサッカーをしていました。一方で海外では、選手たちは労働者からプロになりましたし、共産圏の国でも「ステート・アマ」と言って選手が競技に集中できる環境を国家が保障していました。これはサッカーに限ったことではありません。海外では自然発生的にプロ化が進み、スポーツクラブがスポーツの中心的な役割を果たしてきたのに対して、日本のスポーツはアマチュアとして発展していきました。その背景には、明治維新以降の学校教育の中に「体育」という教科が設けられたことがありました。
そんな歴史を歩んできた日本のサッカーをプロ化するのは容易ではありません。1980年代のはじめ、僕が「サッカーをプロにしよう」と言った時も最初に賛同してくれたのは日本代表監督も経験した高橋英辰さん※4や日本代表選手だった平木隆三さん※5くらい。当時日本サッカーリーグの事務局長をされていた木之本興三※6さんもいました。木之本さんと一緒にイニシアティブを取り、サッカーメディアや著名な記者を集めて意見交換会を何回も開いたものです。意見交換会と言いつつ、みんなの前でプロ化についてひたすらしゃべりまくりました。
※1 新田純興氏 1897-1984 北海道出身。東京大学サッカー部でプレーし、日本サッカー協会設立や天皇杯開催に尽力。日本サッカー協会理事、東京オリンピック(1964年)準備委員長などを務めた。「日本サッカーのあゆみ」編集委員。2006年日本サッカー殿堂入り。
※2 牛木素吉郎氏 1932生、新潟県出身。東京大学サッカー部でプレーし、卒業後はスポーツ記者、サッカージャーナリストとして活躍。読売サッカークラブ(東京ヴェルディ)設立にも携わる。1970年大会以来11回大会連続でワールドカップを取材し、2002年ワールドカップ日韓大会では新潟県ワールドカップ準備委員会常任委員を務めた。2011年日本サッカー殿堂入り。
※3 小野卓爾氏 1906-1991 北海道出身。学生時代に中央大学サッカー部を設立し、日本サッカー協会では専務理事として「日本サッカーの恩人」デットマール・クラマー氏の招聘に尽力。中央大学サッカー部監督として数々のタイトルを獲得し、日本代表選手を輩出した。2006年日本サッカー殿堂入り。
※4 高橋英辰氏 1916-2000 福島県出身。愛称は「ロクさん」。早稲田大学サッカー部、日立製作所本社サッカー部でプレーし、指導者としては早稲田大学サッカー部で関東大学リーグ2連覇、日本代表監督に就任。日立製作所でも監督としてサッカー部の黄金期を築いた。日本リーグの指導者レベル向上に取り組み、Jリーグ初代技術委員長に就任。2009年日本サッカー殿堂入り。
※5 平木隆三氏 1931-2009 大阪府出身。関西学院大学時代はユニバーシアードでも活躍し、卒業後は古河電工サッカー部でプレー。日本代表としてメルボルンオリンピック、東京オリンピック(1964年)のメンバーに。日本ユース代表監督、日本代表コーチなど指導者としても活躍し、日本サッカー協会では技術委員を務めたほか、日本サッカー界の制度改革に尽力した。2005年日本サッカー殿堂入り。
※6 木之本興三氏 1949-2017 千葉県出身。筑波大学サッカー部、古河電工サッカー部でプレー。日本サッカーリーグ事務局長や総務主事に就任し、Jリーグ創設にも貢献。Jリーグ理事・専務理事、日本サッカー協会常務理事などを歴任し、2002年のワールドカップ日韓大会では日本選手団団長に。また千葉大学ではサッカーの地域連携などについての講座も展開した。
「ライセンス・プレーヤー」という発想。
サッカーをプロ化するために、まず、選手をプロにしなきゃいけない。それが僕の考えでした。監督はすでにプロがいましたからね。読売にはフランツ・ファン・バルコムというオランダ人監督を迎えた経験があったし、1974年には加茂周監督が日産自動車サッカー部で日本人初のプロ契約を結んでいました。でも、プロサッカー選手はいない。
そこで注目したのが、選手のプロ化をすすめたテニスや卓球の制度です。もともと日本テニス協会・日本卓球協会は日本体育協会の傘下にあり、国内の選手の身分はあくまでもアマチュア。国際的には賞金を受け取りポイントシステムでのランキングで大会に出場権を得て参加し、賞金は協会がプールして引退後に渡す方策でした。そんな中、1973年に神和住純さんがプロテニスプレーヤーになった。当時の神和住さんの人気はすごかったですからね。日本のテニス界も海外の仕組みを取り入れて「プレーヤーズ制度」を採用し、神和住さんのようなプロ選手を登録できるようにしたんです。日本卓球協会もこの流れを受けてレジスタード・プロという制度をつくりました。
こういった制度をサッカーにも応用できないかと考えて提唱したのが「ライセンス・プレーヤー」です。これは1965年にプロ化したブンデスリーガの規約の中にある「Lizenz Spieler」という言葉、英語でいうところのライセンス・プレーヤーから借用しました。プロという言葉は使っていませんが、実質的にはプロ選手のことです。その頃になると企業アマの選手たちも社業の割合が減ってサッカーに専念するようになってきており、ライセンス・プレーヤーに賛同する人もどんどん増えていきました。
プロ化の鍵、奥寺康彦選手の帰還。
そんな中、ブンデスリーガでプレーしていた奥寺康彦さんの帰国の知らせが入りました。しかし当時の日本サッカー協会・日本サッカーリーグには、プロ選手や外国協会籍選手は登録して半年間は試合に出場できないという規定があったんです。奥寺さんは当時30代半ばのベテラン選手。半年出場できないなんて、もったいない。そこで「奥寺を即出場できるようにルールを変えませんか?」ってライセンス・プレーヤー制度を提案した。これには勝算がありました。奥寺さんは古河電工の出身。そして、当時の日本サッカー協会や日本サッカーリーグには古河電工のOBがいっぱいいたんです。長沼健さん※7、平木隆三さん、川淵三郎さん※8、小倉純二さん※9。こんなチャンスを逃す手はありません。
そんな経緯で1986年に奥寺さんは初めてスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び、翌年にはライセンス・プレーヤーとして多くの「プロ」が誕生することになりました。こうして選手のプロ化が進み、やがてプロサッカーリーグ設立へとつながっていきます。1992年にはカップ戦が開催され、1993年にJリーグ開幕、1994年にはプロ化して初めてのスーパーカップも開催されました。そして、その3つのタイトルを取ったのは、ヴェルディ川崎(東京ヴェルディ)でした。
※7 長沼健氏 1930-2008 広島県出身。15歳の時に広島で被爆、広島高等師範学校付属中学、関西学院大学、中央大学でプレーし、日本学生代表や日本代表にも選出された。卒業後は古河電工に入社し、33歳で日本代表監督に。東京オリンピック(1964年)でサッカーブームを起こし、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得。日本サッカーリーグやJリーグ設立にも尽力し、日本サッカー協会では専務理事や会長を務め2002年には最高顧問に就任した。2005年日本サッカー殿堂入り。
※8 川淵三郎氏 1936年生、大阪府出身。早稲田大学サッカー部でプレーし、在学中から日本代表に選出。卒業後は古河電工サッカー部に入り、東京オリンピック(1964年)に出場。引退後は古河電工監督や日本代表監督を務める。日本サッカー協会でプロリーグ検討委員会委員長を務め、Jリーグ初代チェアマンに就任。日本サッカー協会会長のほか、日本バスケットボール協会会長、日本トップリーグ連携機構会長にも就任。2008年日本サッカー殿堂入り。
※9 小倉純二氏 1938年生、東京都出身。早稲田大学を卒業し古河電工に入社。日本サッカー協会では国際派として活躍し、2002年のワールドカップ招致にも尽力した。アジアサッカー連盟理事、FIFA理事、東アジアサッカー連盟会長にも就任。2013年日本サッカー殿堂入り。日本サッカー協会最高顧問。
佐藤 英男 氏
1977年、読売サッカークラブ(当時)に入社。ヴェルディ川崎・東京ヴェルディ1969(現東京ヴェルディ)や浦和レッズなどJクラブのフロントスタッフをはじめ、日本サッカー協会の国際委員などさまざまな立場で日本のサッカーに携わってきた。特にクラブ強化では、マルチリンガリストという才能を活かし、ペレイラ選手、オジェック監督、ブッフバルト選手、ボッティ選手など多くの大物監督・選手を獲得。海外のクラブや監督・選手たちと繰り広げたぎりぎりの交渉は、山岡淳一郎氏の著書「プロサッカー・アウトロー物語 マリオネット」(文芸春秋刊)に詳しい。2006年、ヴィッセル神戸のGM補佐として来神し、2018年11月に出身地の埼玉県にもどるまで13年間を神戸で過ごした。愛称は「セニョール」。
Text by Michio KII